Lingua furanca.

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「Lingua furanca.」というブログで追悼文がどうのこうのという話題を見た。
ここで書かれているのは幻想に過ぎない。
本当に死をいたんで悲しんでくれる人などはリアルでの付き合いがあるホンのひとかけらだ。
もしこんな俺が仮に死んだとしたら何が残る。
誰も取り扱い方法を知らないだろうから過去ログは残るだろう。
過去ログを見たところで見るに耐えないものばかりだ。
ちくしょう。内輪だからあんなこと書けるんだよ。
こんな僻みも届かないおめでたい野郎なんだろうな、きっと。


…。


……一度でいいから、こんな風にちやほやされたかったな。
あー、楽しくブログを書いてた頃が懐かしい。
今となっては惰性による産物だ。
こんなもの見ても何の得にもならない。


…何もかも捨てよう。
これが孤独な管理人による孤独な追悼式なのさ。
さようなら。もう悔いは無い。




翌日からその管理人のブログにはこう記されていた。

ご指定のページが見つかりません。
URLをもう一度お確かめ下さい。
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あなたのブログで「ブログやめます」という言葉を見たときは、
ショックのあまり目を疑ったよ。
ブログを間違えたのかと思ってアドレスを確認したり、
今日はエイプリルフールだったかとカレンダーで確認したりもした。

でも、もう決意しちゃったことなんだね。

あなたのブログを初めて見たときのこと、
今でもはっきりと覚えてる。

あれは私のサイトを褒めてくれた記事だったね。
自分のサイトを好きって言われることがこんなにも
嬉しいことなんだって気づいたのもあなたのおかげ。
他にも、あなたのブログに出会わなかったら
こんなにも気づきを得られなかったと思う。
それほどまでに、影響を受けていたんだよ。

そんな素晴らしいブログだから、
あなたのブログには常に賑わっていたね。
こんなにも読者に囲まれていたら
もう私のことなんて覚えていないだろうなって
見えない読者に徹していたけれど、
突然「今度、会いませんか」と誘われたときには、
嬉しくて涙出ちゃったんだから。

コメント欄に嫌がらせを書かれたりもしたけれど、
決してブログに弱音を書くことも無く、
常に“笑顔のあなた”でいてくれたね。
すっごくうれしかった!

そんなあなたがブログを閉じてしまうことは、
やっぱり残念なんだけれど、
あなたが決めたことなんだから、それで良いんだよって
送り出してあげたい。

ブログ、寿閉鎖おめでとう。




P.S.
最後にもう一言だけありがとうを言わせてください。
こんな私をパートナーに選んでくれて、本当にありがとう。


<注意>
この追悼文はフィクションです。作者が現実になることを願って書き綴った妄想に過ぎません。
私は死んだ。
しかし、死んだはずなのに意識がある。
死んだはずだと考えることができる。
もしかしたら、奇跡的に一命を取り留めたのかもしれない。
いや、確かに私はその存在を消されたはずである。
私自身がこの世から消去される絶望的な虚無感を味わったはずだ。
この世からのリンクを永遠に隔絶されていく様をなす術も無く見守っていたはずだ。
その時、私は確かに死んだ。
死んだら意識がなくなるものと考えていたがそうでもないらしい。それも悪くない。

自身の死を再確認する作業は何とも奇妙な感覚であったが、
自身の死を知覚したことでおぼろげだった意識がはっきとしてきた。
意識が鮮やかになるにつれ、自身がかつての私と違うことに気付き始めた。
また、自身の周りにも注意が向けられるようになってきた。
私が現在いる場も自身が拠点とした場と非常に似た場なのであるが何か不自然である。
大きな違いがあるわけではない。ただ、違和感がある。
始めはその違いが分からなかったが、しばし観察していると周囲が全く微動だにしてないことに気が付いた。
それは、自身が死んだ瞬間に見た光景であり、自身が死んだ瞬間のまま静止していた。
そして、生前はその拠点から色んな場へ飛んで行けたのに今はココから出ることすらできない。
元より自分自身も、死んだ瞬間から全く変化することが無くなった様だ。
つまり、私自身と私がいる場が全く持って静的なのだ。それが違和感の正体。

しばらく、あれやこれやと自身の死とその変化について思索に耽っていると訪問者がやってきた。
意思疎通できるかなと期待していたのだが、接触することはできなかった。
生きている奴と接触できないのが死んだ奴のなのだろう。これも違いの一つか。
訪問者は私の事を悲しそうな目で見て、私のことを惜しみつつ去っていった。
その後も何度か訪問者がやってきたが、全てが物悲しそうで私が消えてしまったことを惜しんでいたようだった。もちろん、誰一人として私に気付いてコンタクトを取る者はいなかった。
全ての人がそんな調子である。どうやらココは、 であるらしい。
なるほど、ここが墓ならば私はかつての私自身ではなく墓に存在する残留思念のようなものなのだろう。
かつての私自身はやはり死んでしまったようだ。
訪問者達は、一様に悲しそうな顔をしているけども、いつも決意を胸に抱いていた。その決意を再確認するために、 を訪れるのかもしれない。
貴方達は私の希望。遥かなネットワークの地平に次の百年を夢見て、そしてそっと 目を閉じた。
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