Lingua furanca.

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「人生に値札が付けられるなんて誰が思いつくでしょうか」

意味深な惹句をノートの隅に描かれた可愛げの無いキャラクターに、吹き出しと共に書き加えます。しばらく眺めた後、消しゴムでゴシゴシと消し去ると「私の人生はおいくら万円?」と放心気味の女の子のイラストと共に、再度のいたずら書き。周囲を見回すとカリカリとノートに鉛筆(を使うのは私くらいなもので、シャープペンシルが常ですね)を走らせる音が、神聖な学びの雰囲気を伴い教室を包んでおります。真っ白なノートに下手糞な絵が据えられた私のノート。遅遅として筆が進みません。

「そうだな、1500円で100部刷りって所でどうだろう?」

タキシードを着て仮面をつけた素敵な紳士を描きつつも、どこかそのタッチには胡散臭さが散見されるようで、なるほどこれは私の思い描く結婚詐欺師のイメージに違いないと自己解釈してしまいます。あぁ、このような殿方であれば騙されたって痛くも痒くもないのだろうな。空虚になるは財布の中身ばかりでありますが、このご時世女子高生の懐事情は明るくないのです。季節が変化する度に仮想パーティの衣装を拵えたって、どうぞお手を、と差し出す手にはペンダコだらけ。なにせ片手間に埃の被った書物に視線を落としているのですから、健常な思考の持ち主であれば、私の展開する読書家然としたオーラに近づこうだなんて思いもしないはずです。

クラスにおける私の位置取りはそういったもので、何ら変哲の無い物静かな淑女というのがクラスメイトからの評価になるのでしょう。他者からの認識はともかくとして、私は淑女でも無ければ深窓などと修飾されるような、どこかのご令嬢でもありません。いわゆるどこにでもいる普通の女子高生です。ただ本が好きなだけで、毎月のお小遣いが湯水の如く紙媒体へと消えていき、森林伐採による地球温暖化の一助となっている、というのは常に罪の意識として自覚しています。嘘です。

黒板に描かれた大きな文字を見つめます。

「平成20年度 第1四半期の日記」
・構成提出期限 本日18:00厳守

そのまま視線を下に落としても、そこには真っ白なノートがあるだけ。がっくりとうな垂れて、鉛筆を軽く咥えてみると、コーティングされた木の渋い味が口に広がります。私のどこが淑女なのでしょう。

さておき、私は頭を捻ります。
本年度から施行された法律のお陰で増えてしまった悩みの種をどう解消してよいか。放課後は神林長平様の久方ぶりの新作を楽しもうと思っていたのに、これでは気味の悪い校舎に一人残る事になってしまいます。

「青少年読書法」
一日一冊必読たれ、要約してしまえばそれだけの法であり、読まなくとも前科がついたりするわけでもなく、塀の中に閉じ込められる事はありません。将来の有望な子供達を日本から出来る限り輩出したい、という政府ならびに団塊のおじ様おば様達きっての願いが形として成立してしまった、そんな法律であり、なんとも不明瞭な条項が並んでいたりします。
通常の教育課程を経る子供達は、勿論感想文の提出義務がある為、読まないわけにはいきません。それによって成績に変動が起こるばかりか、卒業すら危うくなってしまうのですから、それはもう皆さん必死で読書の虫となり、あっちへミンミン、こっちへリンリンと、図書室やら書店やらはいつも大盛況。図書委員の私の立場も少しは考えて頂きたいですね。おいそれとコーヒーを啜りながら本の世界に飛び込むことが出来なくなってしまったのですから。

制定してからというもの、私としてはこの法律には疑問ばかりを抱いていました。だって本というのは、その人の読むという強い意志があって、初めてその価値が生まれるのですから。楽しむ為だって、学ぶ為だってなんだっていいんです。ただそこには目的があってこそ、読むことに意義が見出され、何かしらのものを吸収していくのでしょう。強制されて読んだ所で何が変わるでしょうか。
「ゲームばかりやってないで本でも読んだらどうなの?」
時世の句として母親になった暁には使用させて頂きたいと思っていたのに、私の些細な楽しみまで政府は奪っていきました。これは最早連帯の時です。革命です。本を読まない子供の絶滅を防ぐのです。冗談です。

私の疑問に対する回答を条文から探すとするなら、政府の思惑として「価値観、人生観の共有」というものが挙げられていた事でしょう。なるほど、本は書き手の人生が濃縮還元されており、それを吸収する事で自らの価値観や人生観を広げようと、今にも崩落しそうな阿部内閣にしては珍しく賛同出来る回答を頂きました。かくいう私も、読書から様々な人の考え方から人生観まで、学び取る事が出来ました。過去の偉人の著作は私の内奥へと吸収されて、多分この先も消える事無く、何代も何代にも渡って伝播されていく事でしょう。

さて生き物は吸収だけしていては、体内の消化作用がいくら素晴らしくとも、機能的には発展はしません。どころか、排泄すべきものを排泄しないと、吸収したものが悪い形で影響を与える事もままあります。
そこで政府の出した施策その2として掲げられたのが、
「日記の出版」です。
どーん、と効果音をノートに書き殴って、すぐに消し殴りました。新語です。鉛筆と消しゴムがクロスカウンターして、丁度バッテンの形になるんです。鉛筆×消しゴム。

人様の人生を吸収したのなら、自分の人生も吸収してもらいましょう。四半期ごとに数十ページに渡るエッセイを綴り、一年単位で一冊の本にし出版しましょうという、なんとも大それた施策であります。出版した本は学校の図書館の蔵書として保管され、貸し出しも可能になります。また校内で優秀作として選ばれた作品に関しては、全国出版まで取り次ぐという作家志望者には夢のような話です。

やれデビューだと息を荒げて筆を走らせる者もいれば、これまでは感想文程度の文章しか書いた事の無い人は苦い表情を見せています。私と言えば、どちらかと言えば前者に当たるのでしょうけれども、何故でしょう、筆が進まないのです。
いくら考えを巡らしても思いつくのは宇宙規模の壮大な物語や、幻想的な世界で勇壮なパーティが旅をする様くらいであり、エッセイとして綴れるもの等、特に無いという悲しい現実を直視するきっかけとなってしまいました。

自分の人生が薄いと言われれば、確かに薄かったのかもしれません。ただひたすらに本を読み漁っていた中学生からの青春。他人の価値観に触れる事は、自分自身の価値観を薄くしていってしまったのかもしれません。何度も何度も上塗りされて書き換えられていく私。今の私は一体誰なのでしょう。私の中に吸収された偉人達の心は、今の私の心のどこに表れているのでしょう。私は、誰?

実に哲学的ですが、さすがに寒気がしてきました。こじれた考えをするよりも、私はタイムトラベルの概念を量子力学的観点から考察する方がよっぽど好きです。むしろよっぽどこじれてます。

そもそもこの施策、万人の人生を本として出力し購読可能な状態にするわけですが、登録する際には税金が掛かります。勿論それは学校の授業料内に含まれているわけですが、まさか自らの人生に税金が掛けられ、あまつさえ値札の貼られた状態で店頭に並んだ際には消費税まで発生するとは、日本もとんでもない所に到達してしまいました。
日記と言えば、現在でも隆盛は衰える事を知らないwebサービス「mixi」がありますが、捻出される広告費は莫大なものだそうです。間接的とは言え、私達は人生に貨幣的な価値を付けられて、切り売りされていたのですから、ぞっとしない話ではあります。様々な人の日記を見て、その人の一日を追体験出来る。
「青少年読書法」の根幹と同じものを持っていたのかもしれませんね。

あぁ、いくら考えても思いつきやしません。敬愛する神林様の新刊への思いだけがグツグツとカレーのように美味しそうな匂いを立てて、私をこっちへおいでと誘惑します。なんでこんなにも私は本を好きだったのでしょうか。私の唯一の自我が、万人にとって普遍的なものとなってしまうなんて、正直、ずるいです。卑怯です。反則です。だから先生、見逃してください。先生寝てます。職務怠慢です。

あぁあと五分で18:00。これが夢で目が覚めたらハヤカワ文庫の山に囲まれていたら良いのに。ギブアップして、戦闘妖精雪風らぶ、と隅に綴った構成案を提出しました。
先生には怒られたけど、これからその愛を煮詰めて凄いの書いてあげるんだから。

「それはエッセイではないだろう」

眠そうな先生に言われました。
失敗です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
りんふら高校優秀作品
「私の失敗するエッセイ」第1章より
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