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「光ファイバの石英ガラスが融けてしまう温度……」

◆世界的に、「インターネットが無くなるとき」を夢想する
一番手っ取り早いのは人類が滅亡あるいは、現在の科学技術を存続できない状態になることだろうか。この条件以外では、インターネットのプロトコルが存続できなくなった時。例えば、ターミネーターのようスカイネットのようにインターネット自体が有機的なつながりを持ちすぎて、自我が発生してしまい、人間の制御下に置けなくなった。あるいは、壊滅的なコンピュータウィルスの登場。ネットに接続すると即座に感染する。接続する端末同士が互いに干渉し中心が存在しないが故に、駆逐できないとか。
上記の例は少しSFめいているかもしれない。「インターネットが無くなるとき」を考えるに、現実めいているのは「思想統制」ではなかろうか。事実、一部国歌では思想統制により本当の意味での「インターネット」が存在しない。日本だって、昨今のネットを規制する可能性のある法案などをみるに、今後どうなるか分からないのだ。

◆思想統制をテーマとした、三つの作品
ジョージ・オーウェルによる小説である 1984年 は思想・言語・結婚などあらゆる市民生が統制され、さらにテレスクリーンという双方向テレビにより生活の全てが監視される世界をテーマにした作品である。

レイ・ブラッドベリによる、華氏451度 は本の所持が禁止された近未来で、焚書に従事する「ファイアマン」の物語。「海の貝」呼ばれる補聴器型ラジオから常に流れる音楽、大型テレビから常に垂れ流される娯楽により、人は本を読まなくても楽しめる世界の物語。

映画 リベリオン は、1984年のように感情さえも統制され、華氏451度の主人公と同じく「感情的なコンテンツ」所持する者や「感情抑制剤」を飲まない者を処分に従事する物語だ。リベリオンはガン=カタを元にアクションが有名だが、そのストーリーも捨てがたい。

これらの、三つの作品に共通しているのは「自ら考えること」が禁止、あるいは抑制されている点だ。1984年では、ファシズム的に、あるいは社会主義的に監視、洗脳する事で「自ら考えること」が抑制されている。リベリオンは1984年より遥かに上を行き、薬により感情すらも抑制されている。共に、その抑制された国の中では大きな問題は起きず、一見平和である。
華氏451度は他の二つの作品と大きく異なる。なぜならば、本以外は禁止されているわけではないということ。人々は絶えず「海の貝」や大型テレビ、テーマパークにより常に娯楽が提供されている。エンターテイメントは垂れ流され、人々は何も考える必要がない。何も考えなければ、不安や恐怖は生まれない。このような受動的な世界で「本」が禁止される理由は、能動的に「本」を読むことで「自ら考え、人の考えに耳を傾ける」ことを規制したいから。「自ら考える」と、不安や恐怖を覚え、そこから不平や不満が生じるため、偽りの平和を保つために「本」が規制されるのだろう。

◆「自ら考えること」を抑制される世界
上記三作品の中でもっとも可能性があるのは、華氏451度ではなかろうか?1984年やリベリオンはあまりにも規制されすぎた世界だ。それに比べ、華氏451度において「本」は規制されているが、人々は常に与え続けられる「娯楽」により一見すると楽しそうだ。しかも、この構図は現代とそう変わらない。テレビから24時間垂れ流される番組。シリコンプレイヤのイヤホンから流れる音楽。携帯電話で無料でプレイできるゲームたち。本にしても、もてはやされるのは何も考えずに読め、売れれば勝ちなベストセラー的作品である。現状において華氏451度的世界を実現するなら、エンターテイメント性を重視した本を含む作品以外を規制し、さらにインターネットにおいて一般ユーザーが自らの考えを公開する方法を無くせば良い。つまり、情報が上から下にしか流れないように統制すれば良いだろう。このように規制されたインターネットは、真の意味でインターネットとは言えないだろう。そして、そのように規制され自由のないインターネットならば僕は利用しないだろう。そしてその時が「インターネットが無くなるとき」なのではないだろうか。
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